お念仏のある人生

                        深川 倫雄 和上様


 一、功徳の名号(みょうごう)

〕 私たちが命の終わりの次に、西方浄土(さいほうじょうど)に参るということは、阿弥陀様の約束ですか。

〕 仏さまと私との約束、契約と考えてはなりません。私がお浄土に参るという果報を得るために、今、私にその因があるからです。南無阿弥陀仏が因として、私の中で私のものとなっているのが、現在の私たちです。これはこの世の事実です。

〕 お浄土に参る約束と心得ることと、因徳を宿している事実とのちがいを示して下さい。

〕 約束には事実が付随してません。他力のご法義ですから、如来さまがご本願を立てて、お前がこの世の命が終わる時、必ず間違いなく西方浄土に迎え取るぞ、往生させるぞと、堅く約束して下さった、その約束が、私に確定するのが信心の始まりの時であると心得、それから命終まで正定聚(しょうじょうじゅ)の者であるという心得は、約束と心得ていることになります。如来さまは、実体はないが、堅い約束だけはして下さったのだというのは、よくありません。

 如来さまは本願のお誓いを成就して下さいました。南無阿弥陀仏と成就して下さいました。南無阿弥陀仏は法蔵菩薩の兆載永劫(ちょうさいようごう)のご修行の功徳でできています。南無阿弥陀仏が私自身のものとなって下さってあります。

 法蔵菩薩は兆載永劫修行して、その功徳を因として阿弥陀仏となりました。又その功徳は南無阿弥陀仏として私のものとなっていますので、私も弥陀同証の果報、即ち、往生・成仏いたします。単に往生・成仏の約束ではなくて、往生・成仏の因の功徳が私には満ちています。それは私の身の上の事実です。

 私どもは仏さまから、既に受くべき廻向はみな頂いています。私には仏になるべき功徳が満ちていますので、只今が仏さまの一歩手前です。わが身は身口意の三業、死ぬまで煩悩具足の凡夫でありますが、その私に名号(みょうごう)功徳が一杯です。

 私たちにはわかりませんが、信心の内徳としてそうなのです。
 約束ではなくて事実です。




 二、功徳満ちたる私

〕 南無阿弥陀仏という広大な功徳が、私のものとなっているということは、ただことではありませんね。私のいまの命はたいへんに値打ちの高いものですね。

〕 よい所に気がつきました。仏さまはそう気をつかせようというお心も込めてあるのかも知れません。私たちは早、ただの凡夫ではありませんから、お釈迦さまは「わが親友よ」と呼んで下さいます。また、華の中の華の如しともいいます。

 また「広大勝解(こうだいしょうげ)の者よ」と言われます。観音、勢至の二菩薩は「勝(すぐ)れた友よ」として下さいます。

 私たちは無上の功徳を具足しています。煩悩悪業を転じて悟りとなす徳を宿しています。

 諸仏や菩薩がた、その他の方々から護られ、称讃されています。
 噴き出るような喜びの元を宿しています。
 ご恩でございますと言える人格を育てられています。

 私が報謝の称名(しょうみょう)、礼拝(らいはい)をして生きるままが、念仏を弘める仕事をしています。
 総じてもって、往生成仏に迷いのない安堵の身であります。

 今度、命が終わってお浄土へ往ってから、別して頂くものは何もありません。今、頂くものは皆頂いていますから、お浄土に急いで行くこともありませんし、死ぬ必要もありません。
 しかし、やがて私にも最後の病床が来るでしょう。お称名もろ共に病み、横たわっていればいいわけです。娑婆も南無阿弥陀仏の満ちた世界、お浄土も仏の功徳、おさとりの世界です。

 隣の部屋へ、ふすまを開けて歩むように、お浄土に参りますと、早、お覚りの花が開きます。早、蓮台の上であります。そのような身分に、只今生きているのだと思えば、また、南無阿弥陀仏を取り出して称(とな)えてみます。

 自分の称えた南無阿弥陀仏を、ほれぼれと自分で聞くというのが、私たちの信仰生活の中心です。それ程、尊い私たちの人生です。

(教育新潮社刊『宗教』誌、平成五年七月増刊号所収)