聖 典 に よ る 学 び

梯 實圓和上

 「お聖教」を拝読するということについて、善導大師が『観経』の「読誦大乗」

(大乗経典を読誦する)という言葉を解釈して、経典読誦の意味を次のようにおっしゃっています。

「讀誦大乘」といふは、これ經教はこれを喩ふるに鏡の如し、しばしば讀み、しばしば尋ぬれば、智慧を開發す。もし智慧の眼開けぬれば、すなはち能く苦を厭ひて涅槃等を欣樂することを明す。

 お経の教えというものは鏡のようなものである。幾たびも拝読し、幾たびもその心を味わうことによって智慧が開け発こって来る。真実の何たるかを知り、自身の愚かさが照らし出されてくれば、煩悩業苦の娑婆を厭い離れ、涅槃の浄土を楽しみ願うようになって来るというのです。今の鏡というのは硝子の鏡で、後ろに水銀などを張りまして非常に良く見えるようになっていますから、この譬えの意味が分かりにくいかも知れません。
昔の鏡は青銅、或は白銅の銅鏡です、ですから鏡は絶えず磨き続けていないと錆が出て鏡は曇って写らなくなります。だから鏡は絶えず磨き続けるわけです。お経を常に拝読するということは、ちょうど鏡を磨くようなものであるというのです。鏡を磨けば、像が明らかに写るように、お経を拝読すれば、自身の現実と、進むべき方向を明らかに知る智慧が開けて来るというのです。「お聖教」を拝読するということによって、自己を知り、如来を知るという智慧が開発されるわけです。反対に鏡が曇れば、自身が見えなくなり、如来・浄土が隠れてしまうわけです。鏡を磨き続け、奇麗に磨き上げられると、そうすると像が少しの歪みもなく明らかに写るわけですね。

 こうしてお聖教を拝読することによって、まず第一に自分自身が何物であるかというをしらせていただくわけです。鏡に写してもらって初めて自分の顔をハッキリと知る事が出来るようなものです。これがこれが「お聖教」を拝読するということの意味でしょうね。
道元禅師も「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり、自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」とおっしゃっています。
道元禅師の『正法眼蔵』も必読の書ですね。何といっても道元禅師は日本民族の生んだ最高の宗教者の一人でございますから、道元禅師の住んでいらっしゃる世界をかいま見せて頂くということも大事ですよ。

私達はどんなにしても一つの人生しか生きることが出来ませんが、書物を読む事によって幾つかの人生をかいま見ることが出来るからです。そういう意味ではいろんなものを読んでおくべきです。いろいろな経典は勿論、『バイブル』から『コーラン』にいたるまで、やはり読んでおくべきですよ。千年も二千年も、何億の人々を魅了し続けてきた書物というのは凄いものがあります。もっとも真宗の「お聖教」をしっかり読まなければなりませんが、しかし逆にそういったものを読んでいると真宗の「お聖教」のもつ深みというものが解って来るということもあります。

 さてその「お聖教」を読むことによって、真実なるものとしての如来・浄土を知らされるといいました。それが智慧を獲得するということでしょう。だから「お聖教」というのは私達に智慧を与えてくれるものだと言われています。そう言えば阿弥陀仏というのは無量光仏(アミターバ)と言いますが、「光明は智慧の相なり」といわれるように如来の真実の智慧の働きを顕していました。ことに親鸞聖人は、阿弥陀仏を帰命尽十方無碍光如来とか南無不可思議光仏というように、光で表した名号を中心にして、如来の徳を顕されています。たとえば『尊号真像銘文』には、

「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。

といわれています。

「帰命盡十方无碍光如来」という十字名号のいわれを解釈されたものですが、『一念多念文意』や、『唯信鈔文意』の場合もほとんど同じような解釈が施されています。まず「帰命」とは、如来の仰せにしたがう信心をあらわしており、「尽十方無碍光如来」とはその仰せを表しています。その中「尽十方」というのは、「十方世界をつくしてことごとくみちたまへる」如来であるということを表しているというのです。阿弥陀如来さまというのは天地を包んで満ち満ちているのだといわれるのです。阿弥陀さまは何処にいらっしゃるのですかというと、いらっしゃらない所はない、だから阿弥陀仏というのだとこういう言い方ですね。
お経には、西方にお浄土があって、そこに阿弥陀さまはいらっしゃると説かれていますが、天地一杯に満ち満ちていらっしゃると聖人はおっしゃいます。勿論聖人も西方という方角を指されることはあります。『浄土文類聚鈔』の「念仏正信偈」の一番最初に「西方不可思議尊」とおっしゃっています。しかしその場合でも「西方」といった次には「不可思議尊」という言葉で如来さまを呼ばれています。これは「西方」という言葉に深い意味を味わいつつも、単に方所を限定するようなはからいを入れさせないように、限定を超える「不可思議尊」という言葉で呼ばれたものでしょう。そうゆう面白い表現を聖人はもちいられるのです。

 言葉というのは、その言葉が顕わす領域、これが問題なのです。阿弥陀仏という言葉には阿弥陀仏そのものが顕されているのです。その徳を一言で「無碍」と言い表されています。衆生の煩悩悪業にさへられることなく、何事にも妨げられることのない、自在の救済力を表した言葉です。それも、ただ障りがないというだけではなく、どんな障りも、すべて徳に転じていくはたらきが無碍の徳なのです。つぎに「無碍光と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり」といわれています。
普通は「无碍光如来」は、「無碍光」と「如来」というふうに文節をするのですが、親鸞聖人はそうしないで「無碍・光如来」という文節の仕方をする。良く注意をして読んでいると、親鸞聖人のお聖教は実に面白いです。実に不思議な読み方がされていて、私どもが全く気のつかなかった世界を開いて見せてくださるからです。気を付けなければならないことは、不必要な既成観念をもちこまないことです。親鸞聖人はこういっておられるけれども、本当はこうなのだというような、そんな要らない事を言わないで、お書きになっているとおりに読めば、その言葉が独自の世界を開いてくださるのです。言葉となって私達に届く。如来は言葉となって私に届いているという事です。
「光如来」というのは阿弥陀仏のことであるが、この如来は智慧のかたちであるということを表しているというのです。如来とは、虚妄分別を離れ、無明の闇を破って、真如をさとり、真如に成りきっているから、如来とは光であり、智慧そのものであるということです。しかしすでに述べたように、無分別智は、必ず後得智となって言葉をもって人々を教化していきますから、如来の智慧というのは、具体的には何なのかと云えば、それは教えの言葉であるといわねばなりません。

 私にとっての如来とは、言葉となって自らのさとりの領域を私の前に開く方なのです、ですから如来とは、光であり、智慧であり、私を呼び覚ます言葉なのです。その如来であるような言葉が、一句につづめれば南無阿弥陀仏であり、帰命尽十方無碍光如来であり、広げれば『大無量寿経』上下二巻となって広がるということです。如来の智慧は教えの言葉となって私達を呼び覚まし続けている、それを「光如来」という。だからこの言葉の通りをスッと受け入れますと、その言葉が開く世界に自分が転入していく訳ですね。その真実のお言葉が“第十八願の教え”なのです。

 「設ひ私が仏になりえたとしても、十方の世界に生きとし生きる全てのものが、本当に疑い無く、私の国に生まれる事が出来ると思ってたとえ僅か十遍でも、私の名を称えるものを浄土に生まれさせる事が出来ないならば、私は仏になりません」と誓われたのです。その言葉をその通りに頂けば良いのです。本願とは如来の願いです。「お願いだから、本当に疑い無く私の国に生まれることが出来ると思ってくれよ」とおっしゃっているのです。

信心とはこの如来の願いの言葉を仰せのままに受け入れることです。「そうですか、それではそのように思い取らせていただきます」と受け入れ、如来のみ言葉のままに自身の生と死の意味と方向を思い定めていくものを仏弟子というのでしょう。
「そなたは私のいう事を聞いてくれたのだな、そうしたらお前は私の仲間だよ」と云って下さるので、私達はそれで仏弟子になるのです。仏弟子になるというのは何も頭を剃るだけが仏弟子ではないのです。如来さまのいわれることを受け入れ、如来さまのいうことを聞くもののことです。

 こうして、言葉となって如来は私の前に現れている、その意味で南無阿弥陀仏という言葉が、帰命盡十方无碍光如来という名号が如来さまなのです。正に如より来る言葉なのです。親鸞聖人は「如より来生して、報・応・化種々の身を示現したまふ」とおっしゃっています。こうして、智慧のかたちとしてのみ言葉を通して私達は、その教えが開く如来の世界を真実と聞き受ける心が開かれますが、それを信心とも、この言葉が開く世界に心の眼を開いてゆく、これを智慧と呼ぶのです。

 そこで、このような智慧の言葉を聞く時に一番大事なこころがけは、自分の既成観念や概念的思考をもって理解しようとしない事です。自分が本来持っている理解力で「盡十方无碍光如来」の領域を理解しようとしたら絶対に分からないように出来ているのです。
分別を超えた領域を分別しようとしても出来ないことは当然です。分けて知ることの出来ない領域を、分けて知ったとすれば、それは理解したのじゃなくて誤解しているだけです。ですから『大経』でも『阿弥陀経』でもそうですが、凡夫の理解力のとどかないさとりの領域を説き表しているのだから、この教を、凡夫の地力で読んでも決して分かりませんよ、といわれます。

『大経』の一番最後のところに、聖道門の教えはまだ理解することが出来ようが、「若し斯の経を聞きて信楽受持することは、難の中の難、此れに過ぎたる難は無けん」といわれています。
『大経』の法義を聞いて、それをよく理解し、信楽し、受持することは、難の中の難、これ以上の困難はないといわれているのです。絶対にお前には分からない真実を説いたのだよといわれています。
『阿弥陀経』もそうです、「極難信」といわれています。それでは一体どうしたらいいのかというと、お経に説かれていることを、自分の既成観念で理解しようとせずに、仰せのままをただ素直に頂けばよいといわれるのです。
解って信じるのではなくて、私には納得できないけれども、如来さまの仰せが真実であるとはからいなくみ言葉を受け入れるのです。するとその言葉が、全く新しい領域を開いてくださるのです。

 人間の心、人間の言葉でもって了解できる所には、如来も浄土もないということです。それを突破した所に如来があり、浄土があるわけで、それはただ如来の言葉によってのみ開かれるものだからです。月は月の光が知らせてくれるように、太陽は太陽の光がその存在を告げてくれるようなものです。

 人間が自らの知性でもって、何か未知のものを理解しようとする場合には、その何か訳の分からないものを既成の知識の体系の中に包摂しようとします。もし白墨という物を知らない人が、これを見つけて、「これは何ですか」(黒板のチョークを指して)と尋ねたとき私どもならば、「それは白墨ですと概念で答えます。
そして「白墨とは何だ」といわれると、「それは石灰を主材料にして固めたもので、こうして黒板に字を書くためのものです」と説明する。すると尋ねた人は今まで持っていた知識によってそのことを理解し、「そうですか、それでよくわかりました、食べるものでは無かったのですね」というので、この人には新しく白墨という知識が出来上がり、一件落着するわけです。そういう風に既成の知識に新しい事象についての知識を上積みにするという形で知識は増えていくわけです。

 ところで、目の前に起こった事象について、従来の知識が全く役に立たない場合は、了解不可能になります。主語をたとえ部分的にでも包摂する述語を持ち合わせていなかったならば、主語について述語することが出来ませんから、理解不可能ということになります。ところが如来の境界について理解する、述語として包摂していく既成の知識は我々には無いのです。
お経にはそれを「唯仏与仏」の知見といわれています。ただ仏と仏とだけが知り得る事柄であって、さとりの智慧を持たないものには決して了解できないといわれているのです。
先程いいましたように分別して知ることしかできない私どもには、生と死を超え、愛と憎しみを超え、一切の分別を超えている世界を理解する能力を持ち合わせないに決まっています。
虚妄分別を以て一如の世界を理解することはできない、無分別の世界は理解できないから無分別というのです。そういう世界から流れ出てきた経典の言葉を、通常の事柄を理解するような姿勢で捉えようとしても「分かりません」という絶望的な言葉しか出てきません。いいかえれば経典は「私が書物を読む」という態度で理解しようとしても、それは不可能なのです。そうすると、自分の既成の概念を以て経典を理解しようとすることを一度やめなければなりません。それを「はからいを離れる」というのです。

 では「はからいを離れて読む」とはどうすれば良いのかということになります。それは経典を読むのではなくて、経典に読まれることです。普通は、私が書物を読むという時には、私が読む主体となって、そこへ与えられさまざまな情報を既得の知識に照らし合いながら取捨選択し、理解しては採り入れ、自分の知識を増やしていくわけです。
もっともその情報の中には既成の知識によって包摂し切れない事柄もありますが、よく調べ、勉強することによって、少しづつ理解を深め、知識を蓄積して行くわけです。ですから読むというのは、あくまでも私が主体となって読むのであって、読まれてはならないのです。読まれるということは、その書物の著者に支配されることであり、他人に情報操作をされていることになるからです。

その意味で新聞や雑誌を読むときには、読者に情報選択能力が要請されるわけです。つまり人にごまかされないように賢くなければならないわけです。今日のように情報が氾濫している時代は、特に一人一人の情報選択能力が問われてきます。

 ところがお聖教を読む場合は、それと全く違った態度が要求されるわけです。私が主体となり、「お聖教」を客体として、「お聖教」を私の既成の知識によって包摂し理解しようとすると、必ず訳の分からない事柄に出あって行き詰まるわけです。
お経は、私どもの知識が必ず行き詰まるように説かれているといってもいいでしょう。例えば『大無量寿経』を見て御覧なさい、お釈迦様は耆闍崛山(霊鷲山)で一万二千人の比丘達に向かって説かれたといわれています。これは常識からいったら全く無茶ということになりましょう。
霊鷲山に登られた人ならばご存じでしょうが、一万二千人どころか二百人も入ったら一杯になってこぼれ落ちる位の狭い所にどうして一万二千人も入れるのか、第一に一万二千人もの人がどのようにして食べていくのか、いくら一日一食しか食べないとしても王舎城は経済的に破綻します。それにマイクロホンの無い時代に、一万二千人の人にどのようにして話をするのですか、話なんて出来ません。

 それから無数の菩薩が集まってきたといわれていますが、その菩薩達は「此の賢劫の中の一切の菩薩」だといわれています。過去の荘厳劫、未来の星宿劫に対して現在の劫を賢劫というわけですが、全体としては八十劫で、その中有情の住める時期は住劫で、二十劫もあるといいますから、想像もつかない長い時間です。
その中に出現した一切の菩薩が集まっておられたというのです。もちろんそれは、私どもにはわかりようのないことです。過去の菩薩もいらっしゃるし、未来の菩薩もいらっしゃるわけでしょう。しかし過去とは過ぎ去って今はいないから過去なのです。今居れば過去では無い、現在です。未来というのは未だ無いから未来なのです。未来の菩薩が集まる訳が無いでしょう。
この賢劫の中で出現するすべての菩薩が集まっておられると云うのは、何を言おうとしているのでしょうか。その時にこのような訳の分からないことをいうお経はナンセンスだといってしまうか、それとも私にはよく分からないが、大変大事な事柄を告げようとしていらっしゃるのだと受け取るかが問題になってくるのです。

つまりこの経典は、時間とか空間の制約を超えた領域を私どもに告げようとされているのだと受け取るならば、私どもはこの経典の言葉を通して、永遠なものにふれ、無限な世界にふれていくことができるわけです。例えば未来の菩薩とは私であるという事に気づいたひとは、自分が今『大無量寿経』の法座の中に在るということがわかります。そうなれば今『大無量寿経』は私に説かれているということになります。
つまり『大無量寿経』というのは遠い昔の、歴史のある一点で、ある地方の一角で説かれたものではなくて、永劫に説き続けられている経典なのだということがわかってきます。そういう事が分からないと経典を読んだ意味がないわけです。そういうことが分かるためにはお経を読む眼というものを養って貰わなければいけない訳です。

 そこでまず経を読むというのは私が主体になって読むのではない、むしろ逆に「お聖教」が主体となって私が何者であるかを知らせていただくというような読み方がされなければなりません。
その意味で、私は「聖教」に読まれ、「聖教」に包まれていくのです。いいかえれば「お聖教」の言葉の中に自己自身を見いだしていくということです。善導大師の『法事讃』の下巻に「釈迦如来、身子(舎利弗)に告げたまふは、すなはちこれあまねく苦の衆生に告げたまふなり」という言葉があります。ご存じのようにあの短い『阿弥陀経』のなかに三十数回にわたってお釈迦さまは舎利弗よ、舎利弗よと名を呼びかけながらみ教えをお説きになっています。

その舎利弗というのは、確かに仏弟子のお名前に違いないが、それは決して舎利弗だけにお説きになっているのではなくて、実はこの娑婆世界にあって煩悩を起こし、さまざまな苦悩にまつわられながら生きているすべての衆生にお説きになっているわけで、いわば舎利弗は私どもの代表者としてその名を呼ばれているのだというのです。
そうしますと『阿弥陀経』を拝読するときは、今拝読している人が、あの舎利弗というののところに自分の名を入れて拝読すべきであるということになります。私ならば、あそこに「実圓」という名を入れて読むべきでしょう。そうなると私が読んでいるのではなくて、私は聞いているのです。『阿弥陀経』のご法座に私がいるということがわかれば、わが前に如来は立ちたもうということが感じられます。

その時にはもう私が経を読んでいくのではなく、如来さまに包まれ如来さまに呼びかけられているわけで、私は己を空しくして聞いているということになります。その時には如来が主体で私はその客体です。善導大師は阿弥陀仏の本願を、「汝一心に正念にして直に来れ、我能く汝を護らん」という招喚の勅命として味わわれています。
そこでは如来さまが「我」です。私達は私ではなくて「汝」なのです。「我能く汝を護らん」という本願の世界では如来が主体であり、私は如来の客体なのです。こうして如来が主人公、私は「汝」なのです。ここで信が成立する訳なのです。

 経典を読む場合には、何よりも信心がなければならないといわれるのはそのゆえです。龍樹菩薩の『大智度論』に「仏法の大海は、信をもって能入とし、智をもって能度とす」といわれたことは有名です。
「信をもって能入とす」というのは、己を空しくして、経典のみ言葉をはからいなく聞き受けるということです。そこでは経典が主人公であって、私はひたすら経典の仰せのままに従い、教えを受け入れるばかりです。ところがそのことによって経典が伝えようとする世界に次第に導かれ、教えが私を改革し、さとりの智慧に則って物事を考え、行動するようになってきますと、今度は、経典の言葉の底に潜んでいる深い意味を領解する智慧が恵まれてきます。
つまり経典によって育てられた智慧によって、経典の深義を読みとるようになるわけです。例えば善導大師が『観経』の深義を読みとって『観経』に対する古今の学者の誤解をただし、正しい『観経』理解のための枠組みを確定するという古今楷定をされたのがそれです。また親鸞聖人が、第十八願成就文を読み変え、『浄土論』や『観経疏』の文言を読み変えられたようなことが行われるようになるわけです。それは経典が育てた智慧によって経典の深義が開示されるわけで、まさに経典を読み切っているといえましょう。

 こうして、今度は「お聖教」を読み切るというようなことが行われるわけです。それは如来から賜わった智慧、信心の智慧のはたらきなのです。信心とは如来さまの仰せを真実と受け容れる心ですが、法を素直に聞ける耳が開けたことによって、法が私のなかで主体化するわけです。教えが私の身につくといってもよいでしょう。その信心の智慧が「聖教」を読み切る、こんな世界が出てくるわけです。もっともこのようなことは誰でも出来るわけではありません。
いわゆる祖師と崇められるような方であって初めて出来ることではありますが、この「お聖教」は、このように読んだ方がより深く「お聖教」の真意が明かになるのだという、「お聖教」が「お聖教」を読む如く読みきっていくというようなことがおこなわれます。親鸞聖人の『教行証文類』に典型的に展開されている世界がまさにそれなのです。さらにいえば、そのような深遠な智慧をもって独自の発揮をされた方を祖師と呼び、その方方の書物をお釈迦様のお経と並べてお聖教というといっても善いかも知れません。

 仏教、特に浄土真宗において聖教とは何か、浄土真宗の聖教にはどのようなものがあるか、お聖教の拝読にはどのような心得が必要かということを申し上げたわけですが、本日は此れ迄にさせて頂きます。