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第九章 七高僧の功績

印度西天之論家 中夏日域之高僧
顕大聖興世正意 明如来本誓応機
印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕わし、 如来の本誓機に応ずることを明かす。
印度に出られた龍樹(りゅうじゅ)菩薩、天親(てんじん)菩薩の論師、中国に出られた曇鸞(どんらん)大師、道綽(どうしゃく)禅師、善導く大師、日本に出られた源信(げんしん)和尚(かしょう)、源空(げんくう)上人等の優れた高僧方は、何れもお釈迦様がこの世に出られた正意を顕わされました。さらにお釈迦様によって説かれた阿弥陀如来の本願の誓いこそ、末の世の私達凡夫に最もふさわしい教えであることを明かされたのです。
(一)二千年にわたる正法の伝承
 今まで述べて来ました依経段は、私を救い給う本願の確かさをお釈迦様の言葉、即ち無量寿経・阿弥陀経によって讃嘆されたのであります。
 「印度西天之論家」より最後の「唯可信斯高僧説」まで三十八行七十六句は、七高僧の御釈によってさらに弥陀の本願を讃嘆されました。今この四句はその序文の言葉に当り、七高僧に共通した功績をお述べになります。即ち七高僧何れもお釈迦様の世にお出ましになった正意は、弥陀の本願を説くことにありとあらわされ、その本願こそ凡夫相応の教えであることを明らかにされました。

 ここで話は少し横にそれますが、大師は弘法に奪われ、開山は親鸞に奪われるという言葉があります。天皇より大師号をおくられた高僧は沢山ありますが、今日お大師様といえば弘法大師を指し、一宗を新しく開いた高僧を開山と申しますが、今日では御開山と云えば親鸞聖人に限られています。このように普通名詞がこの方々のお徳によって固有名詞に変わりました。親鸞聖人は一宗の開祖御開山と後世の人々から仰がれておられます。それは一宗の開祖としての条件を充分に具えておられるからです。一宗開宗者の条件とは次の四つであります。

一、宗名
二、拠り処の教典
三、教法の継承者
四、独自の教えの発揮
これを親鸞聖人についてみますと、宗名を浄土真宗と名乗られました。真宗教義のよりどころとなる教典は浄土の三部経、即ち無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と定められました。教法の継承者は、先に述べました龍樹菩薩、天親菩薩(印度)、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師(中国)、源信和尚、源空上人(日本)の七人の高僧です。法門の発揮とは、今までの高僧方が顕わされなかった独自の教えを顕わすことであります。即ち本願他力による往生浄土の道を、法然上人は念仏往生と示されました。この教えを正しく継承しながらそれを信心正因、称名報恩と展開されたところに、親鸞聖人の功績があります。これを法門の発揮と言います。
 このように聖人は一宗を開かれた開祖としての資格を充分具えておられますので、後の人が聖人を浄土真宗の御開山として仰ぐのは当然であります。  けれども聖人は一宗を開こうとする意志は毛頭ありませんでした。それは次の言葉によっても明かです。
一、弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば親鸞が申す旨、またもてむなしかるべからず候か。  (歎異抄第二章)
二、親鸞さらに珍らしき法を弘めるに非ず、ただ如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。 (御文章)
 この歎異抄また蓮如上人の御文章に引用されている親鸞聖人のお言葉の意は、阿弥陀如来の本願のまことが釈迦如来の説法と顕れ、その説法が善導大師の教えとなり、その教えを承けられた法然上人のお言葉を親鸞聖人が素直に頂いて伝えるばかりである。
 この意を更に要約され、親鸞はさらに特別変わった教えを広めるのでなく、釈迦如来の説かれた教法を親鸞自身が頂き、その頂いた喜びをあなた方にお伝えするばかりですと。
 この言葉によって明らかに知られるように、親鸞聖人には終始、一宗開宗の意志はなく、あくまで謙虚な聞法の行者として歩み続けられたのです。従って親鸞聖人は開宗の意志なき開宗者という言葉が最もふさわしいと言わねばなりません。

 思えば、お釈迦様より親鸞聖人に到るまで、国を隔てること、印度、中国、日本と三ヶ国、時を隔てること約二千年、この永い間に七人の高僧が次々とお出ましになって、お釈迦様の説かれた阿弥陀如来の本願を、増さず減らさず、一つの器の水を次の器に移すように次々と正しく継承されました。

 親鸞聖人は法然上人の導きによってこの本願を素直に信受されて、私達を導いて下さるのであります。「三国の祖師各々この一宗を興す、愚禿すすむるところさらに私なし」即ち印度中国日本の三国に出られた七高僧が、偏(ひとえ)に弥陀の本願を広宣されました。親鸞はその外に別に変わった教えを説くものではありませんとお述べになりました。そうして聖人自身、遇い難く聞き難い本願に遇い、本願を聞くことの喜びを思うにつけても、お釈迦様以来二千年の長きにわたり、この法を継承された七高僧のご恩を深く深く感佩して、「印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕わし、如来の本誓、機に応ずることを明かす」と讃嘆されました。

(二)七高僧の選定
 お釈迦様より親鸞聖人に到る二千年の永きにわたり、幾多の名僧高僧 が出られて、浄土の往生をすすめ、人々を導かれましたが、その中より特に、先に申しました七人の高僧を選び出し、七高僧として仰がれたのは次の三つの理由に依るのであります。

一、自ら西方浄土を願生された (自身願生(がんしょう))
二、後の世を導く不朽の書物を書かれた (著述)
三、伝統をふまえながら新しい教義の展開をされた (法門の発揮)
 第一に自身願生、これは大変重要な意味を持っています。宗教学者必ずしも宗教人に非ずという言葉がありますが、どんなに広く宗教の知識を持ち、その学問に精通していても、その人が必ず信仰の人とは言えません。宗教の学問によってその知識の欲求が満たされても、それはそのまま信仰にはつながりません。何故ならば信仰とは学問知識を超えて、無限の如来の大悲に目覚めた世界であるからです。いろいろな宗教の教えに精通しても、貴方の信仰は何かと問われた時に、私はこの教えによって生かされ、この教えによって安らかに死を迎えることが出来ると言い切れなかったならば、それは学問の世界にとどまって、宗教としては何等価値のないものと言わねばなりません。

 私学生時代に、中沢顕明師より史学について特別講座を受けたことがあります。その時、名前は言われませんでしたが、かって東本願寺の僧籍にあった方が、何かの理由で僧籍を離れられました。宗教学については、深い学識があらわれたのでしょう、当時の有力な某新興宗教より、素朴な原始宗教から脱皮する為の教義の書きかえを依頼されました。そうしてこれをなし遂げて現代日本の有力教団として発展させられました。けれどもその方は最後までその宗教の信者にはなられなかったそうです。
 こうした姿は、どんなに宗教的知識を持っておられても、真の宗教者として仰ぐには足りません。
 今親鸞聖人が自己の師と仰ぐ方を選ぶについての第一の理由に、自ら本願を信じ、念仏しながら、西方浄土を願生されたことを挙げられたのは当然のことと言わねばなりません。

 第二の理由としては、著述の有無であります。西方浄土を願生された方々は数多くおられますが、後世に輝く著述を残された方となりますと、選定の範囲は狭まってまいります。
 七高僧についてこれを見ますと、龍樹菩薩には「易行品(いぎょうぼん)」、天親菩薩には「浄土論」、曇鸞大師には「往生論註」、道綽禅師には「安楽集」善導大師には「四帖の疏」、即ち「玄義分」「序分義」、「定善義」「散善義」、源信和尚には「往生要集」、源空上人には「選択本願念仏集」があります。これ等は何れも往生浄土の道について、後世の人々を導いて輝かしい光彩をを放っています。

 三つには法門の発揮、自ら浄土を願生し、著述を残された方々の中から更に伝統をふまえながら、その時代時代に応じて新しい独自の教義を展開された高僧はと尋ねてみれば、この七人に限られます。
 この新しい教義の展開を七高僧の上に尋ねて見ますと、龍樹菩薩は釈尊一代の仏教を難行道、易行道に分けて易行道をすすめられました。
 天親菩薩は一心願生と申しまして礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向の五つの徳を円(まどか)に具(そな)えた一心(信心)によって浄土に願生することを顕されました。
 曇鸞大師は自力他力を分別して自力を捨てて他力の行をすすめられました。
 道綽禅師は釈尊一代の教えを聖道門浄土門に分かち、末法の衆生にはひたすら浄土門をすすめられました。
 善導大師は、古今楷定と申しまして、極悪の凡夫がお念仏によって最も優れた阿弥陀仏の浄土に往生するいわれを明らかにされました。
 源信和尚は、専修念仏の他力の行者は真実の浄土に生れ、雑行雑修の自力の行者は、方便化土に往生すると示されました。
 源空上人はお念仏によって浄土に往生出来る理由を、阿弥陀仏の選択の本願によることを明らかにされました。このように西方浄土に往生する道について、その時代時代に応じてそれぞれ新しい教義を開いて導かれたのであります。この三つの条件に照らし合わせて、多くの高僧の中よりこの七人を選定されました。よってこの七人を七高僧として、その高恩を仰いで行かれたのであります。

(三)凡夫に相応しい教え
 七人に共通した輝かしい功績は、二つに絞ることが出来ます。一つはお釈迦様のこの世にお出ましになった正意は、弥陀の本願を説くことにあると顕わされたこと、二つにはその弥陀の本願は末の世の凡夫に、最も相応しい教えであることを明らかにされたことであります。

 第一のお釈迦様のこの世にでられた正意については、第五章「み仏の世に生れ給う本意」のところで述べましたので、そこにゆずり、第二の末の世の凡夫に相応しい教えであることについて考えてみたいと思います。
 源空上人は「極悪最下の機のために、極悪最上の法を説く」とお述べになりました。極悪最下の機とは煩悩の中に明け暮れして、気に入らないと怒りの炎を燃やし、気に入れば貪欲愛着の心に振りまわされ、思うように行かないと愚痴をこぼしながら日暮しをしている私のことであります。これはまさに光を失い、闇の中にさまようている姿であります。これを親鸞しょうにんは
 「いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と歎かれました。このような私を救う為には、もろもろの八万四千の自力の教えでは到底間に合いません。その為に、大悲の阿弥陀如来は勝れて易い南無阿弥陀仏の他力の法を案じ出し与えて下さったのであります。
 これは言葉をかえて言えば、凡夫が凡夫のまま本願を信じ、おまかせするばかりで救われて行くことであります。従って如来の本願こそ、末の世の私達に最も相応しい教えと言わねばなりません。

 私、昭和四十一年十一月、北海道を一ヶ月間巡回した時に、鷹栖の専証寺(住職打本信英師)で坊守打本三津江さんから、亀井勝一郎氏の死を悼むという記事を特集したローカル紙を見せて頂きました。その年の十月札幌で北海道出身者の文学展がひらかれました。亀井先生は函館出身ですから係の方が、東京の自邸を訪ね、出品を乞われました。先生は病床にあられましたが、快く承諾されて幼い子供の頃から今日まで、いろんな人の話を聞き、いろんな本を読んで、特に感銘した言葉を三十一枚の色紙に書いて送られました。一番最初の言葉が”よく遊びよく学べ”で三十一枚目の最後の色紙に”いそぎまいりたきこころのなきものをことにあわれみたもうなり”(「歎異抄」第九章)の言葉が書かれたあり「私は数年、病床にある。病床にあってねむれぬ夜、一人死を思う時に、この言葉がひしひしと胸に迫って来る」と註釈が添えてあったそうです。これを読んだ時に、深い感銘を覚え、弥陀の大悲による本願他力の救いこそ、私たちに最も相応しい教えであることをしみじみ感じました。親鸞聖人はこれを「如来の本誓、機に応ずることを明かす」と述べられたのであります。

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第十章 龍樹章

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
釈迦如来楞伽山にして衆のために告命したまはく、南天竺に龍樹大士世に出でて、悉く能く有無の見を催破せん、大乗無上の法を宣説して、歓喜地を証して安楽に生ぜんと、難行の陸路苦しき事を顕示して、易行の水道楽しき事を信楽せしむ、弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時に必定に入る。
唯能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといえり。
お釈迦様が楞伽山で説法し給うた時に、お弟子の大慧菩薩が、この尊いみ教えは世尊の涅槃の雲にかくれました後はどうなるのでしょうかと問われたのに対して、私の亡き後に南印度に龍樹と名乗菩薩が現れて、正法に背いて人々を惑わした外道(仏教以外の思想、宗教)の有()の見(常見)無の見(断見)の邪見を悉く打ち砕いて、自らは菩薩の初地の位、即ち真如の一部が見える歓喜地(かんぎぢ)の位をさとって、やがて安楽国に生まれるであろうとお答えになりました。
このお釈迦様の予言に応じて現れた龍樹菩薩は、外道の邪見を摧破して、大乗無上の法を明らかに説きつつ、お釈迦様の一代の法を難行易行道に分けられて、もはや後返りしない不退の位に達するのに、難行道は例えばけわしい陸路を行くようなものであり、易行道とは水路の乗船を楽しみつつ行くようなものであると教えられました。更に易行道の内容を説かれて、本願を信受する信心によって必ず浄土に生まれるべき必定の位、即ち正定聚に住し、如来の大悲を報ずる為に常に称名念仏すべきことを教えられました。
(一)お釈迦様の予言
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
 先に七高僧共通の功績を讃えられましたがこれより以下は一人一人の勲功を讃えられるのであります。今の、「釈迦如来楞伽山」より「応報大悲弘誓恩」まで十二句は、第一祖の龍樹菩薩を讃えられたのであります。
 印度は、歴史のない国と言われております。それは、古代の印度の人々は記憶力に富んでいたので、文字に書き残さなかったことによるのであります。従って龍樹菩薩の出生の年代についても定説はなく、九説が伝えられて、お釈迦様滅後、百年説から九百年説に及んでいます。然しいろんな資料を総合して、釈尊滅後七百年位という説が最も有力です。それは紀元二、三世紀頃に当たります。龍樹菩薩は青年の頃、英才の誉れ高かったのですが、友人と共に色欲に耽りました。その為に友人が斬殺された姿を見て、色欲は身を滅ぼすもととさとり、出家して初めは小乗仏教を学ばれましたが、後にヒマラヤ山中に住む老比丘(老僧)より、大乗仏教の教えを学び、その奥義に達して甚深微妙なる法を究められました。そうして千部の書を著されましたので、世に千部の論師と言い、第二のお釈迦様とも讃えられ、又八宗(各宗)の祖師とも仰がれています。その中、大智度論百巻、十住毘婆娑論十七巻は最も代表的なものであります。

 この龍樹菩薩の輝かしい徳をあらわすものに楞伽の懸記というのがあります。懸記とは遙に記すと言うことで、予言のことであります。即ち楞伽山(りょうがせん)でなされたお釈迦様の予言です。この予言を読む時に、私には次の様な状況が頭に浮びます。
 印度の南海岸に険しくそそりたつ楞伽山に、お釈迦様の説法の座が開かれようとしていました。多くの秀れたお弟子並びに一般の大衆は寂として声はなく静まりかえって、海を渡そよ風は、青葉を通して肌に心地よく、空はあくまで青く澄み渡って、さえずる妙なる小鳥の声はお浄土の伽楞頻伽(がりょうびんが)の鳥の声にも似ています。お釈迦様のやさしいお顔には、真実を説く喜びが満ち溢れています。自信を深く心中に湛えてやがて静かに説かれる一語一語は、清い泉のこんこんと湧き出て大地を潤すように一人一人の胸に注がれて行きました。説法が終わってもお弟子達は感動と喜びに胸ふるえ、その喜びをかみしめて誰一人として声を出す者がありません。
 ややしばらくして、大慧(だいえ)菩薩が進み出て、恭しく大地に跪き合掌礼拝してお釈迦様に申しました。
 ”世尊よ、私は幸いにも世尊に遇うことが出来てこのような尊いみ教えを聴聞することが出来ましたが、世尊も地上の定めに従ってやがて涅槃の雲におかくれになった後、この尊いみ教えはどうなることでしょうか?”その時お釈迦様は静かに、
”私亡き後この正法は、暫くは正しく伝えられるが、やがて心なき比丘(僧侶)によって乱されるであろう。その乱れの隙に乗じて、有の見、無の見の邪法(第八章参照)がはびこり、その為、正法は一時影をひそめる、その時南印度に龍樹と名乗る菩薩が現れて、邪法を悉く打破り、大乗の甚深微妙の法を明らかに宣説しながら、やがて歓喜地を証して、阿弥陀如来の安楽浄土に往生するであろう”と予言されました。
 その予言の如く南印度に出現されたのが龍樹菩薩であります。子の予言は楞伽の懸記と申しまして、今日残されている楞伽経の中に明らかに記されています。
 親鸞聖人はこのお釈迦様の予言に深い感動を覚えて、七高僧の第一祖に挙げられたのです。
 それを今、「釈迦如来楞伽山にして衆のために告命したまはく、南天竺に龍樹大士世に出でて、悉く有無の見を催破せん、大乗無上の法を宣説して歓喜地を証して、安楽に生ぜんと」と仰せられ、更にこの心を和讃に

南天竺に比丘あらん 龍樹菩薩と名付くべし
有無の邪見を破すべしと 世尊はかねて説き給う
と詠われました。

(二)龍樹菩薩の勲功=易行道を開く

顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
 龍樹菩薩の輝かしい功績は、先に申しましたように、お釈迦様の説かれた仏法を、難行道易行道に大きく分かられて、難行道とは険しい陸路を行くようなものであるとして、ひたすら易行道をお勧めになったことであります。易行道とは水路を行く船路の旅であると懇ろにさとされました。
 けれどもここに見落としてはならない大切なことがあります。それは難行道とは後に曇鸞大師によって自力であると説かれましたが、自力の行が何故難行かということについて、龍樹菩薩は諸(しょ)、久()、堕()の三つの難を挙げておられます。即ち自力の行は諸善万行を修めて行かねばならない。又これには久しい時間がかかる。そうして途中で堕落するおそれがある。この故に難行と仰せになりました。この自力の行に対して、一人の修行者が質問をしました。

 諸、久、堕の三つの難があるから、この行を完成することは難しい。よって他に易行のやさしい道がないかと。
 これに対して、汝の言葉はまことに弱い愚かな劣った者の言葉で、仏道を求める大きな志を持った勇猛精進の丈夫(ますらお)の言葉ではない、と厳しく叱っておいて、尚、易行道を求めようとするならば、その道はあると易行道を説き開いて行かれたのであります。何故修行者の質問に対して、直ちに易行道を説かずに修行者の言葉が弱い愚かな劣った者の言葉だと叱られたのでしょうか。ここのところを留意しなければなりません。

 私はこのことを思う時に親鸞聖人の比叡の自力の行を捨てて、法然上人の他力の念仏に入られた時のことを思うのであります。もし親鸞聖人が自力修行の難行の外に、他力念仏の易行の道があるから、というので自力を捨てて他力に入られたならば、それは堕落の道をたどったと批判されても仕方はないでしょう。果たして親鸞聖人はそのような方であったでしょうか。私にはそうとうは思われません。聖人の厳しい山上での修行中、数々の難行苦行に耐えながら、常に胸の中に一つの疑惑があったのではないでしょうか。仏教は果たしてこの道だけで良いのであろうか。もしこの道だけだとすると、み仏の救いにあずかる者は極く一握りのえらばれた人に限られてしまう。仏の慈悲は大悲と言われ、あらゆる人々の上にも注がれている筈、それは万人の救いを約束したものであるにもかかわらず難行苦行に耐え得るものしか救われない、それが仏の救いであろうか。少なくとも女人禁制の比叡の掟に従えば、人類の半分の女性は完全に仏の救いの圏外締出されている。仏教はこれだけでよいのであろうかという疑惑であります。

 聖人のこの心中の苦悶を伝えるこうした伝説が残されております。聖人が修行中、一日都に下りられました。そうして帰途、みやまの麓、赤池明神の境内にさしかかりました。この明神は、比叡山守護の神として祭られているのであります。ここまで来た時、うら若い女性の声がしました。

”もし御出家様、私は恋に破れ、人の世に生きる望みを失った悲しい者であります。この上は、み仏の袖にすがって生きたいと存じます。私を比叡のみ山にお連れ下さい”
”貴方は御存じないのですか、比叡は厳しい女人禁制のみ山であります。この境内がら女性は一歩も山に入る事は許されません”
”み仏の大悲は罪深い悲しき者にこそ注がれるのではありませんか。その女性がみ仏のお慈悲にすがれないとは・・・もし女人禁制と言われるならばお尋ね致します。み山に女鹿女猿はいないでしょうか。女鹿女猿がいるみ山に、どうして人の子の女性が登る事が出来ないのでしょうか”
”貴方の気持、私も同じであります。修行未熟な私には、貴方の問に答える力はありません。どうかお許し下さい”
と袖を振り切って逃げるように山に帰られました。
 こうした伝説の事実があったかどうかは問題ではないでしょう。聖人の胸にうごめく疑惑と苦悶を伝えて余すところがありません。
 聖人の心中には、この自力修行の道は決して間違っているとは思えない。然し仏教はこれだけではない、ほかに今一つの道がある筈、否、なけらばならない。この疑問の最後の解決を求めて、六角堂に百日お籠りになったのであります。そうして九十五日目の暁、救世観世音菩薩の夢の告げによって、法然上人を訪ね、他力念仏の易行の道に転入されました。このことは何を物語るのでありましょうか。
 それは決して先に申しましたように、仏道に難行道易行道があり、難行道は難しいから易い他力の易行の道に向かわれたというようなそんな安易なものではなくて、自力修行の限界を見究めて、難行道を超えた他力の道に転入されたのであります。即ち難行道を手がかりとして他力易行の万人の救われる道を発見されたとも言うべきでありましょう。
 この心を龍樹菩薩は難行道の苦しさを逃れて、安易に易行を求めようとする者に対して汝の言葉は弱い愚かな、劣った者の言葉であって、仏道を求めようとする大きな志、勇猛(ゆうみょう)精進のますらおの言葉でないと厳しく叱り、難行自力の限界を知らせた上で、易行の大道、即ち万人救済の他力の道を開かれたのであります。親鸞聖人はこのことを和讃に
生死の苦海ほとりなし 久しく沈める我等をば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける
と詠われました。船のみぞの”のみぞ”の言葉に千金の輝きがあることを見落としてはなりません。
 私はこの和讃を拝読する時に、今から十数年前に日吉町立特別養護老人ホーム青松園の法話会の時の事を思い浮かべるのであります。その日は午前中法務が重なっていましたので止むを得ず午後二時からにしました。かねては十一時より始めて、済めばすぐ昼食なので話合いの時間がありませんでしたが、その日は午後三時に終り、入浴時間が四時になっていますので、
”今日は時間がありますから、しばらく話合いしましょう、何か聞きたいことがあれば何でも言って下さい”
と話合いにはいりました。けれどもなかなか発言がありません、この老人達には、何を聞いたらよいのかそれが解らなかったのでしょう。私も辛抱強く発言を待っていました。ややしばらくして両眼失明したおばあさんがおそるおそる
”先生この間から心配で心配でねむれない事があるのです。私はこうして目が見えませんが、ここにお世話になっている間は寮母さんやお友達の御世話で何とかやって行けます。でも命が終ったら三途の川を渡り、死出の山路とやらを歩いて行かねばならないそうですが、眼の見えるほかの人達はずんずん先に行ってしまって、目の見えない私は、知らない所で一人取り残されてうろうろしなければならないかと思うと、心配で心配でねむれないのです”
 素朴な問いではありますが、このおばあさんにとっては大変な問題だと思いました。
”おばあさん、そのことなら少しも心配はいらないのよ、自力の教えだったら自分で険しい道を歩いて行くのだからその心配はいりますが、私達の頂いている他力のみ教えは、本願弘誓の船に乗せられて行くのですから目の見える人、見えない人、足腰の丈夫な人、弱い人、皆平等に連れられて行くのですから”
と申しました。するとおばあさんの顔にややホッとした安堵の色が見えました。
”では先生、命終った時に、その弘誓の船とやらに乗り遅れないようにさえ気をつけておればいいんですね”
”それは違う、命終った時には、弘誓の船がお浄土についた時よ、乗るのは今よ、こうしてみ仏のお慈悲を聞いて、煩悩一杯持った私に、そのままを安心してこの親にまかせよ必ず救うと呼んでいて下さる仰せに、素直にハイとおまかせする。これが弘誓の船に乗せられた姿よ”
と話しました。おばあさんが思わず合掌して、見えない目から涙ポロポロ流しながら、
”じゃ先生、何の心配もいらなかった、このままでよかったんですね、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏”
とお念仏されました。他力の救いとはまさにこの風光で、大悲の呼び声に素直に信順しおまかせするその後の生活は、大悲弘誓の船に乗せられた生活であることを私達によくよく味わわせて頂きましょう。そこに信仰以前の生活と信仰の生活との大きな違いがあることを知らねばなりません。このことを聖人は、
大悲の願船に乗じて 光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かにして 衆禍の波転ず。
即ち無明の闇(あん)を破し 速やかに無量光明土に到りて
大般涅槃を証す (教行信証 行の巻)
と仰せになりました。これは如来の大悲にめざめ、帰り行く命のふる里を知らされて、大悲に支えられて生き行く喜びを述べられたのであります。

(三)信心正因と称名報恩

憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
 龍樹菩薩は、先に申しました通り仏道に難行道易行道ありと説かれて、易行道をすすめられて、自らも易行道によって阿弥陀仏の浄土に往生して行かれましたが、今ここでは易行道の内容を示されたのであります。
 憶念弥陀仏本願とは、阿弥陀如来の本願を素直に頂き心に忘れないことであります。

 即ち信心決定のことをいわれました。その信心決定する時、間髪を入ずに、即時に必ず浄土に生れる位に即()くことを、即時入必定と仰せになったのです。言葉をかえて言えば、信心正因を顕わされたのであります。和讃にこの意を、

金剛堅固の信心 定まる時を待ちえてぞ
弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける
と詠われました。
 次に、
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
とは信心決定して必ず往生する身にならして頂いた者は、常に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と名号を称えて、如来の大悲におこたえすべきことを諭されたのであります。これは取りもなおさず私達の称えるお称名は、善根功徳を積むためのものでもなければ、利益を求める呪文でもなく、広大な仏恩を仰ぐ報恩感謝の称名であることを示されたのであります。

 浄土真宗の教えは、信心正因、称名報恩と定められていますが、それは龍樹菩薩の教えにもとづかれたものです。信心正因のことはこれまでしばしば述べてまいりましたのでそこにゆずり、称名報恩について考えてみたいと思います。

 何故称名が報恩と言われるのでしょうか。ひとつには大悲に救われた喜び、即ち報恩感謝の思いから称えるからであります。二つにはこの称名は上讃仏徳下化衆生(じょうさんぶつとくげけしゅじょう)といわれているように、上(かみ)はみ仏お徳を讃嘆し、下(しも)は衆生を教化する徳が具わっているからであります。蓮如上人が”あまかかの嬉しやと称える念仏を聞いて人が信を得るなり”と仰せになったのはこの意です。では何故お念仏に人々を仏法に導く徳があるのでしょうか。み仏を讃嘆するお念仏は、そのままみ仏の大悲が、私の口を通して現れている相(すがた)にほかなりません。このお念仏について甲斐和里子先生は、

みほとけの み名を称える我が声は 我が声ながら 尊かりけり
と詠われ、又原口針水和上は、
我れ称え 我れ聞くなれど これはこれ 連れて行くぞの 弥陀の呼び声
と詠われました。
 又私の恩師利井興隆先生は、
今日も又 連れて行くぞの声聞かば 道知らぬ身も 迷いやはする
と詠っておられます。これは何れもみ仏の大悲が私の口を通して、宇宙法界に活動している相を詠われているのであります。
このお念仏と生活とのかかわり合いについて思いを巡らす時、私は蓮如上人と大和の了妙さんの対話を思い浮べます。久し振りに蓮如上人が了妙さんを訪ねられました。了妙さんは喜び迎えて、”お上人様、お陰で元気でこうして糸車を廻しながらお念仏させて頂いて居ります”と申し上げた時に上人が”了妙や、それは違うぞ、糸車を廻しながらお念仏をするのではなくて、お念仏の中に糸車を廻すのよ”とお諭しになりました。これは生活の中にお念仏があるのではなくて、お念仏の中に生活のあることを諭されたのであります。信心を喜ぶ私達の全生活が仏恩報謝のほかなく、又御法義繁昌の営みと言わなければなりません。親鸞聖人が「世の中安穏なれ、仏法広まれ」の念願に生きるのが念仏者の姿勢であると仰せになったのはこの意であります。

 これについては二十年も前になりましょうか。私の尊敬する親しい法友佐々木次生(じしょう)法兄のお寺(南隅組願生寺)に永代経の布施に行った時、昼のお説教が終わり、講師部屋に帰って来た時に、仏教婦人会長の前村まつさんが、いろいろお世話して下さいました。夕方近くなって前村さんが帰宅しようとされると、老坊守さんが、”あなたどうせ一人身だから夕飯はここで済まし、御講師さんのお世話をして、晩の御縁に遇うて帰られたら”と言われました。
前村さんは、”いや、私は帰らせて頂きます”と言われ、いくらすすめられても聞かれません。
そこで私は、”遠慮も時によりけりですよ、こんなに親切に言って下さっているのですから奥さんの言葉に甘えられたら”とすすめました。
すると、”いや先生、私は遠慮して帰ると言っているのではありません。私がこのままここに居れば、晩の御縁に遇うのは私一人だけです。だから私は帰って、お友達を二、三人でも声をかけ誘ってお参りしたいからです。”
 私はこの言葉にハッと胸を打たれました。そうして、お念仏を喜ぶ人々は目のつけ所が違うなあと思い、”解りました。ではお帰りなさい。いらないことを言ってすみません。”と言いました。
その時前村さんがしみじみこんなことを言われました。
”一人でも多く御縁に遇って頂こうと誘ってまいった時に、御講師のお話しが難しくてよく解らない時は、私はともかく、誘って来た人に対して、身を切られるような思いがします。”と。
 私はこの言葉を聞いた時に、布教使の責任の重大さを深く感じて、布教使は常に勉学に心がけて、こうした純真な人々の期待に背くようなことがあってはならないと感じたことでした。
 今、称名が報恩と開顕されたのは、ただ仏前に座ってお念仏することだけではなくて、私の生活全体が仏恩報謝の営みであることを教えられているのです。

 更にこれについて、深く思われますことは、お釈迦様はこの世を因縁所生(いんねんしょしょう)、相依相関(そうえそうかん)の世界と説かれました。これは総てのものは因と縁によって生じ、互いに関わり合っているということです。例えば網の目によって支えられ、又一つの網の目は全体を支えています。このように私の生活は社会全体によって支えられ、又私の生活は社会全体を支えて、お互いに関連し合って存在しているのです。従って私の一挙一投足、良い事、悪い事、そのまま全社会に影響を及ぼして、互いに響き合うのです。私はこの事についてしみじみ感じました。
 昨年(昭和五十五年)三月二十九日、私の四男哲量が、福井市の千福寺(住職高務祐成師)に迎えられました。今年御正忌に帰って来た折り、福井の特産である干柿を沢山土産に持って帰りました。
 ”お父さん、これは高いのですよ。”
 ”そうだろう、どうしたのか。”
と聞いた時に、お父さんの書かれた「輝くいのち」を読まれた門徒の人達が、報恩講にお参りした時に、
 ”貴方のお父さんは干柿が好きなようですね、と言って土産にと下さったのです”
 ”そう! 有難う、よくお礼を言っておいて”と申しましたが、
 私はこのことを通して、仏教で説かれてる因縁所生、相依相関の世界なる故に総ての行動が互いに響き合うということをしみじみと実感しました。
 私達の念仏に支えられた行為が、宇宙法界に響き合うことを思う時に、その行動の責任の重さをしみじみと感じさせられます。ここに浄土真宗門徒の規範として示された浄土真宗の生活信条の意義の深さを強く感ずることです。

一、み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ強く明るく生き抜きます。
一、み仏の光を仰ぎ、常に我が身を顧みて感謝のうちに励みます。
一、み仏の教えに従い、正しい道を聞きわけて、まことのみ法を広めます。
一、み仏の恵みを喜び、互いに敬い助け合い社会のために尽します。
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第十一章 天親章

天親菩薩造論説 帰命無礙光如来
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力回向 為度群生彰一心
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化
天親菩薩論を造りて説かく、無礙光如来に帰命したてまつる、修多羅に依りて真実を顕して、横超の大誓願を光闡す、広く本願力の廻向に由りて、群生を度せんがために一心を彰す、功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入る事を獲、蓮華蔵世界に至ることを得れば、即ち真如法性の身を証せしむと、煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の薗に入りて応化を示すといえり。
お釈迦様がお亡くなりになり、約九百年後に北印度にお生まれになりました天親菩薩は、浄土論を造られてその冒頭に、「世尊よ(お釈迦様)私は無碍光如来(阿弥陀如来)の仰せに一すじに(一心に)信順して、阿弥陀如来の浄土に往生することを願います」と自分の信仰をお述べになりました。そして大無量寿経によって真実の救いを顕わして、広く明らかに他力の本願を説かれました。
一切の人々を救うために本願力の恵みによる他力の一心を救いの因と顕わされ、あらゆる功徳の宝を海の如くに収めた名号のいわれを聞き開くことによって、この迷いの世界にありながら、浄土の清らかな菩薩の仲間に入り、そしてやがて仏の世界に到れば速やかに真如の悟りを聞いて、煩悩の林の如く充満する迷いの世界に帰り来て、神通力を以てその人々を救うのであるとお説きになりました。
(一)小乗仏教より大乗仏教へ
 お釈迦様が涅槃の雲におかくれになって約九百年後に、北印度にお生まれになったのが天親菩薩であります。
 天親菩薩は三人兄弟で、兄さんを無着(むじゃく)と言い、弟を獅子覚(ししかく)と言いました。
 早くより仏道に入りて小乗仏教を学ばれ、印度随一の学匠とうたわれ、五百部の書物を書いて小乗仏教の普及伝道につとめられました。鹿を追う猟師は山を見ず・・・と言う諺がありますが、小乗仏教に心酔する余り、大乗仏教を誹謗されました。お兄さんの無着菩薩は早くより大乗仏教を信奉し、その幽玄にして深い奥義に達しておられましたので、弟の天親菩薩が大乗仏教の尊さを知らずして、徒(いたず)らに誹謗しているのを心痛して、或日手紙を送られました。

 ”今私は重い病気の為に日夜苦しんでいる、是非逢いたいから早く帰って来るように”と。
 天親菩薩は驚いて、夜を日についで兄さんの元に帰って行かれました。お兄さんは元気で病気のような様子が見られません。
 ”お兄さん病気はどんなぐあいですか?”と問われると、
 ”私は体の病気ではない、お前の為に今重い心の病気で日夜苦しんでいる”
 ”それは又どういうことですか。”
 ”お前は幽玄な大乗仏教の真意を知らず、小乗仏教に心酔する余り、大乗仏教を謗って、折角仏門に入りながら日々地獄の業を造っている。それを思うと私の胸は傷んで張りさけるばかりである。”
 ”兄さん、では大乗仏教とはどんな教えですか。”
 そらからお兄さんより大乗仏教の幽玄な道理を聞いて行かれました。一を聞いて十を覚る英才であられた天親菩薩は、忽ち大乗仏教の真意を体得されて
 ”ああ、私は知らないとはいえ、何と恐ろしい罪をおかしたことであろうか”
と深く後悔して、大乗仏教を謗った舌を噛み切り、その罪を償おうとされました。お兄さんの無着菩薩はそれを止めて、
 ”一度大乗仏教を謗った罪は、そなたの舌を千枚噛み切っても償えるものではない。大乗仏教を謗ったその舌で大乗仏教の尊さを広く説いて、人々を救うことこそ、真に罪を償う道である。”と諭されました。

 それからこの道を更に深く学んで、又五百部の書をつくって大乗仏教の布教伝道につとめられたのです。よって後年、天親菩薩を龍樹菩薩と共に千部の論師とあがめられました。天親菩薩は小乗仏教を学び尽し、更に大乗仏教を究められました。何れも天親菩薩の知的欲求は満たされたでしょうが、そこには天親菩薩自身の生死の問題、命の行方を解決することは出来なかったのであります。

 天親菩薩は生死の問題、命の問題は、お釈迦様がお説きになった阿弥陀如来の本願を信じ、仰せ一つに素直に信順する他力の一心(信心)によってのみ、解決することが出来ると確信されるに至りました。そうして天親菩薩は、あらゆる衆生と共に本願を信じ、浄土を願生して行かれました。このことを具に説かれたのが浄土論であります。そこで「浄土論」の冒頭に先ず自分の信仰を表白され、遠く九百年の隔りはあっても、眼前にお釈迦様がまします如く、世尊よ、私はあなたのお説きになられた阿弥陀如来の仰せに信順し、阿弥陀如来の安楽浄土を願生しますとお述べになりました。そうして大無量寿経によってその教えを明らかにして、他力本願のお心を顕わして行かれたのであります。

 ここで私達が心ひかれるのは、小乗仏教の教理、大乗仏教の哲理を究めて、千部の論師と仰がれた天親菩薩も、生死の問題については、その学識を離れて、煩悩一杯持った凡愚の立場に帰って、あらゆる人々と共に手を取り合いながら、本願を信じて浄土を願生されたことであります。闇を破るものは光であり氷を溶かすものは熱であります。私達の真実救われて行く道は私達の学問修行を如何に究めてもその中からは出て来ません。煩悩渦巻く迷いの世界を超えた清浄真実のみ仏の世界から呼び給う無碍光仏の本願の力による外はないと言うことにはかなりません。

 親鸞聖人はこのことに深い感銘を受けられまして「天親菩薩論を造って説かく、無碍光如来に帰命し奉り、修多羅(お経)によって真実を顕し、横超の大誓願を広宣す」即ちこの意を意訳には

天親菩薩論を説き ほとけのひかり仰ぎつつ
おしえのまことあらわして 弥陀の誓いをひらきます
と述べられています。

(二)天親菩薩の勲功=一心願生

広由本願力回向 為度群生彰一心
 天親菩薩の足跡を讃嘆されて、次にその勲功を讃えられたのがこの二句のお言葉でありますが、この二句より終りまでは浄土論に説かれているお意をお述べになったのであります。

 天親菩薩の功績は、愚かな凡夫の為に、本願即ち第十八願に往生の正因と誓われてある至心信楽欲生(まことに疑いなく我が国に生まれんと欲(おも)う)の三心が、本願力によって恵まれる他力の一心と開顕されたことであります。
 阿弥陀如来の仰せに素直に信順する一心こそ本願力の恵みであり、この一心によって総ての凡夫が浄土に往生出来るのであります。

 ではどうして本願に誓われた三心を、天親菩薩は一心と顕わされたのでしょうか。又三心がどうして一心に収まるのでしょうか。これについて親鸞聖人は「教行信証・信の巻」に、三一問答という一段を設けられて、この解明に力を注いでおられます。その意を要約して述べてみますと
 ”お尋ねします。本願の第十八願にはすでに至心信楽欲生と三心が誓われてあるのに、何故天親菩薩は一心と仰せになったのでしょうか。”
 ”お答えします。天親菩薩のこころは量り知ることは出来ませんが今私親鸞が推測申しますとそれは愚かな衆生に、たやすく領解せしめるためです。阿弥陀如来は本願に三心を誓われましたが、さとりの真実の正因はただ信心一つでありますので、天親菩薩は三心を合(がつ)して、一心とあらわされたのであります、即ち愚かな衆生には三心と説かれても、その心が領解しにくいので、信心一つで往生の因が定まることを示すために三心をまとめて一心と顕わされたのであります。”
 次に第十八願即ち本願の三心がどうして一心に収まるのか、について三つの理由をお述べになりました。一つには字訓釈と申しまして、至心信楽欲生の言葉の意味を探ってみると、至心も信楽も欲生も共に疑いを離れた無疑の心でありますから、至心信楽欲生の三心は無疑の一心に収まるのであります。

 二つには法義釈と申しまして、法義の上から窺いますと、源信和尚の横川法語(よかわほうご)に

”妄念はもとより凡夫の地体(じたい)なり、妄念の他に別に心はなきなり”
と述べられてあるように、煩悩に目鼻をつけたように私達には、遠い遠いいにしえより今日今の時に到るまで、無明煩悩に覆われて、清浄の心もなく、真実の心もありません。従って真実の至心も信楽も欲生も私の心には起こす事は出来ません。よって大悲の阿弥陀如来は、法蔵菩薩の時に、一念一刹那の短い間にも真実清浄の心を離れたもうことなく、この三心を成就し、私に与え給うのであります。
 従って、真実大悲の手元に出来上がった三心を私達は疑いなく領受する一心であります。

 三つには三心と言えどもその体は南無阿弥陀仏の外はなく、南無阿弥陀仏の謂を聞き開く外なき一心であります。
 以上三つの道理を鋭く見抜かれた天親菩薩は、愚かな私達の為に本願の三心は大悲の阿弥陀如来の仰せに信順する無疑の一心にほかならず、この一心こそ、本願力によって恵まれた他力の一心であると示されたのであります。すれば私が迷いの世界を離れて、真実のお浄土、即ち命のふる里へ帰らして頂くのはただこの他力の一心の外ありません。
 このことをお正信偈の意訳、信心のうたには

本願力の恵みゆえ ただ一心の救いかな
と歌われています。
 この一心については、二つの意味があり、一つには無二、二つには専一であります。無二とは疑う心のない一心であり、専一とは阿弥陀如来の教え一つで他の教えに心を傾けないことであります。
 ここで私達がよく気をつけなければならないのは、本願を疑っては救われないと思い込み、如何にして疑い晴れようかと我が胸を眺めて苦しんでいる人々が多いことであります。
 真剣に道を求めようとすればする程、ここに躓いて苦しむのです。私達は先に申しましたように、妄念煩悩より外ありません。この心を見つめて、どんなに疑い晴れて綺麗な心になろうとつとめてみても、それは所詮無駄な足掻(あが)きと言わねばなりません。卵は自性が綺麗ですからどんなに汚れていても、洗えば綺麗になるでしょう。けれどもタドンや炭は自性が黒いから決して白く綺麗にはなりません。疑い晴れようと力むのでなく、私を救うのに微塵の不安もなく、我にまかせよ必ず救うと疑い晴れて呼び給う如来の本願のおいわれを聞いて、こんな浅ましい者を、親なればこそ、お慈悲なればこそと、仰せ一つを仰いで行くのであります。

 利井鮮妙和上がこんな譬えでここのお謂われを説いておられます。
”箱の中に白豆五合黒豆五合入れて、がらがらと振り廻し、小さい口からどちらが出るかと問われたら、白か黒かと疑いを持つであろう。今度は黒豆九合、白豆一合入れて振り廻してどちらが出るかと問われたら、おそらく黒豆が出ると答えながら、ひょっとしたら白豆が出るかもという疑いが残るであろう。黒豆一升入れて、さあどちらが出るかと問われた時に、ひょっとしたら白豆が出るかもという疑いは誰一人として持つ者はない。
 本願力によって必ず救うと大悲の親様の方に決定(けつじょう)し、疑い晴れて呼び給うおいわれを聞き開いた時に、そこには我が心、信じ振りに用意はなく、ただほれぼれと本願一つを仰ぐばかりである。そこに疑いの入る余地はないと。
 これが無疑の一心であります。この無疑の一心は如来の大悲に目覚め、大悲を頂いた一心であります。金剛心とも菩提心とも、又仏性ともいわれて、よく浄土に生まれる正因となるのです。

(三)一心の利益

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化
 先に天親菩薩は、愚かな凡夫の為に往生の正因と誓われました、本願の至心信楽欲生の三心は、阿弥陀如来の仰せに疑いなく信順する一心であると開顕されましたので、ここにその一心の利益をお述べになったのがこの六句の言葉であります。あらゆる功徳を収められた南無阿弥陀仏の名号は、常に宇宙法界に活動して私達の上に働きかけています。
 これは取りもなおさず、罪は如何程深くとも、障りは如何に重くとも、我にまかせよ必ず救うの大悲親様の呼び声の外ありません。
 聞法を通してこの呼び声に目覚めることを「帰入功徳大宝海」と仰せになりました。
 この大悲に目覚めた時、即ち信心定まる時に、迷いの世界にありながら、光明の中に摂取されますので、煩悩持ったまま、お浄土の清らかな菩薩の仲間にはいらせて頂くのです。これを「必獲入大会衆数」とうたわれました。従って、命終れば蓮華蔵世界、即ちみ仏のさとりの世界に生れ行き、真のさとりを開く身にならせて頂くのであります。

 ではお浄土とはどんな世界でしょうか。天親菩薩は浄土論に浄土の相状(すがた)、働き即ち荘厳、功徳を具に説かれて、国土の荘厳十七種、仏の荘厳八種、菩薩の荘厳四種を説かれました。これを三巌二十九種と申されています。
 この荘厳は唯美しき妙なる飾りと言うだけでなく、その荘厳の一つ一つが功徳と言われるように衆生救済の働きをするのであります。
 阿弥陀経には「これより西方十万億仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という、その土()に仏まします、阿弥陀と号す、今現在説法し給う」と説かれています。これは迷いの世界を超えた彼岸のさとりの世界に阿弥陀如来がましまして、衆生救済のために説法し給うという意であります。

 次にこの浄土にありては七宝の池の小波(さざなみ)も、木の葉にそよぐ風の音も、空飛ぶ鳥の囀(さえずり)も清らかな菩薩の、仏を讃嘆し給うみ声も、すべて念仏念法念僧と説かれてあります。これは浄土の荘厳が阿弥陀仏の衆生救済の大音説法の声であり、お念仏のひびき合う姿を示しているのであります。従ってお念仏の生活とはこの浄土の光に導かれ行く生活と言えましょう。

 この三種荘厳の浄土をこの土にうつしたのがお寺であります。高く聳(そび)ゆる壮麗な甍(いらか)、美しく掃き清められた境内、み堂の中の美しい数々の飾りは国土荘厳を現し、須弥壇中央に立ちますみ仏のお姿は仏の荘厳であります。それでは今一つの菩薩の荘厳は何でしょうか。それは直接み仏にお給仕する住職、坊守、寺族の人々であると共に、本願を信じ念仏しつつ浄土に生れ行く念仏者の人々であります。すればお浄土の荘厳が衆生救済の働きをなしつつあるのならば、念仏を喜ぶ私達は衆生教化の尊い仕事に参加させていただくのです。浄土の菩薩の仲間に入るとは、単に言葉だけのことではあってはなりません。
 大谷嬉子(よしこ)様がお裏様として本山におはいりになられた時にその決意を

鳳(おおどり)の雲分くるごと みほとけの みのりひろめん おおけなけれど
と詠われました。
 次に清らかな菩薩の仲間に入らして頂いた喜びは未だ見ぬ世界でありますが、必ず浄土に生れて仏のさとりを開かせて頂く喜びでありましょう。浄土の往生を忘れ、仏になる喜びをおいて、私達の上の何処に末通った真実の喜び、幸せがあるでしょうか。
 私の門徒の総代を長くされた、中野藤助さんが終戦後十年余り結核で病の床に伏したまま闘病生活を続けられました。その間いろんな宗教より甘い誘惑の手が延ばされましたが、それらには一度も心を動かされることなく、長い闘病の末、見事に健康を回復して、いよいよ聞法に励み、総代としてお寺の為に一所懸命働いて下さいました。
 昭和五十一年九月二十一日、惜しくも本堂建設途上、七十才で亡くなられました。私はその時腕を失ったような悲しみ傷みをおぼえました。その中野藤助さんが或法座の話合いの場で、真宗に遭わせて頂いて何が嬉しいですか? との問に、
”私は凡夫が仏様にならして頂くことが一番嬉しいです。”と答えられました。
 それから今一つは
 高校時代明信寺のYBAに来ていた増田雅子さんが昭和四十六年三月高校を卒業して、県外に就職して行く前の最後の例会の時に、
 ”先生私は三年間YBAに来て、高校で学んだ学問の外に、もっともっと広い世界があることを知らされました。それはお念仏によってお浄土に生まれると言うことです”と話しました。
 この二人の言葉が今も私の胸に鮮やかに残っています。
 親鸞聖人はこの感激を「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」とうたわれたのであります。
 ひとたび浄土に生れ、さとりを開いた暁には、再び迷いの世界に帰り来て、お釈迦様がさとりの世界からこの迷いの世界に現れて、自由自在に苦悩の衆生を救われたように、私達も衆生教化の働きをさせて頂くのです。

 本願を信じ、念仏しつつ浄土に生れ行く相(すがた)を往相(おうそう)と言われ、浄土からこの世に現れて、人々を救う相を還相(げんそう)と言われます。
 これを親鸞聖人は

安楽浄土に到る人 五濁悪世に還りては
釈迦牟尼仏の如くにて 利益衆生はきわもなし
と詠われました。又私達が浄土に行く相も浄土から還り来る相も全く阿弥陀如来の本願力の恵みの外ありません。従って親鸞聖人は往相廻向、還相廻向と仰せになり、和讃に
南無阿弥陀仏の廻向の 恩徳広大不思議にて
往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり
と讃嘆されるのです。
 この事を静かに思う時に、私にはキリスト教と親鸞聖人の教えが頭に浮んでまいります。
 この二つの宗教の同異点を尋ねますと、三つの共通点と三つの相違点があるようです。
 先ず共通点を申しますと、
一、キリスト教は神の愛によって天国に生れ、
  浄土真宗は阿弥陀如来の慈悲によって浄土に生れる。
二、キリスト教は富める者の天国に入る事はラクダに乗って針の穴を通よりも難かしい。
  浄土真宗は邪見驕慢の悪衆生、この法、信楽受持する事甚だもって難し、難中の難之に過ぎたるはなし。
三、キリスト教は、我の来れるは病める者の為なり。
  浄土真宗は善人なおもって往生をとぐ、いかにいわんや悪人をや。
 次に相違点は
一、キリスト教は叩けよ開かれん、祈れよ救われん。
  浄土真宗は救いの光は既に注がれている、聞けよ大悲に目覚めよ。
二、キリスト教は天国にて神の下僕となり神に仕える。
  浄土真宗は阿弥陀如来と同じさとりを開き、仏になる。
三、キリスト教は天国は救いの終局点。
  浄土真宗では浄土は衆生救済の出発点。
 このような同異点を挙げることができます。

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化
ほとけのみ名に帰してこそ、浄土の聖衆(ひと)のかずに入れ、
蓮華の国にうまれては、真如のさとりひらきてぞ、
浄土の薗にかえりきて、まよえる人を救うなり (正信偈意訳)
のお言葉を拝読する時に、次のようなことが頭に浮んでまいります。即ち、浄土真宗では、如何に悲しい別れをしても、それは永遠の別れでなく、本願を信じお念仏を喜ぶ私達には必ず又逢える世界が約束されているということであります。
 幼くして両親にお別れになった親鸞聖人は、父母の行方を求めて出家され、ひたすら道を求めて行かれましたが、このお念仏の世界に於て、はじめてその切なる願いが円かに叶えられたことでありましょう。
 又その喜びは晩年、関東の愛弟子に送られた手紙の中に、
「浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」と温いお言葉となって表れています。
 この言葉に接する時、私は親鸞聖人とは遠く七百年の隔りはあっても、聖人の温い体温に触れるような懐かしさを感じるのです。


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